昭和50年08月09日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感に適うたのじゃ。神の機感に適わぬと身代もあり力もあるが壮健にない。壮健で賢うても身代をみたすことがあり、又大切の者が死んで身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから互い違いになって來る。信心して神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ。」

 神の機感の適うた氏子が少ない。神様の気心。神様のお心に適うた氏子が少ない。先ずは神様の御心に適う信心というか心掛けをしなければいけません。しかもそれが三代続いたらめぐりのお取り払いも頂いて、信心の徳も積んだ上に積み、しかも愈々子孫繁盛、家繁盛、いわゆる一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るのですから。先ずは神の機感に、神のお心を知ることが大事です。そして神様のお心に適うた心の状態を、愈々つくって行くと云う事。しかもそれが子に孫に伝わって行かねばならん。
 そこにまた結構な何時もおかげの世界、人間の云うならば幸福な世界と云うものが開けて來る訳であります。昨日天草教会の久留米教会で御大祭の時にお顔だけは知っとりますが、別に言葉を交わしてお付き合いした事も御座いませんが、何とはなしに合楽ひいきと申しますか、何時も若先生が御用に参りますけども、合楽の信心に対して大変好意を寄せて頂いていると云う。それが何時も矢張り感じますですね。
 どんなに口でうまく言いよっても判るですよね。その先生から母が亡くなりました事を聞いて、早速お悔やみ、それに大変丁重な玉串料を添えてお悔やみを受けました。是だけ久留米関係が沢山ありますけど、久留米関係でお出て頂いたりお悔やみ頂いたのはここだけです。如何に私が人気が悪いかと云う事が解ります。そこで私が早速返事を書きました。何時も西岡先生が代筆をして下さいますから、原稿だけは私が書きます。そしてその芯になる所、筋になる所だけを書いて渡しましたら。
 夕べここに来たら書いてここに持って来て御座今した。読ませて頂いたら私が原稿書いた通りに書いちゃる。肉もつけてなければ味もつけてないと云う感じです。けれども繰り返し読ませて頂きながら、これが私の手紙らしいなとも、また思わせて頂いた。まあ普通で云うならね、暑さ寒さの事を言うたり、教会の御比礼の事言うたり、必ず先生方信者さん方の手紙にはそれがある訳です。けど私がこう書いときゃ、それこそ時候の挨拶やらちゃんともうそう云うとったんです。
 そう書いて下さいよと、これは筋だけだから、これに文句なんかも私が良い文句なんか良く知らんから、あなたがちゃんとこれに良い言葉、良い文句を作ってして下さいと云う意味でお願いしとったら、私が原稿書いた通りに書いてある。それを一つ読んで見ます。 「思いもかけずお悔やみを頂き、まことに有難く存じます。その上お心こもる御霊前、お供えを頂き誠に恐縮致し、厚く御礼申し上げます。
 昨七日無事二十日の旬日祭を仕えました。半年余りに両親父九十三歳、母八十七歳、その上教え親三井教会長荒巻親先生を送りましたが、信心の徳と申しましょうか、全ての事成行きの中に天命を全うし、全ての責任を全うした者の安らぎを親達の死に依って知りました。無情即有情と、誠に尊い体験を頂きました。一切が御恩恵の中にある事と、先ずは御礼まで。」と。
 だから言葉の足りない所が沢山ある訳ですけれども、それこそ、おせん泣かすな馬肥せのあれじゃないけど、私は只そこんところだけを書いてある訳です。しかし聞いて頂いとって意味は通じるでしょうが。そして私が只、お合いしてご挨拶するでも、これだけの事を言うだろうと思う事だけが書いてある訳です。繰り返し読ませて頂いて書き直して貰おうと思ったけど、これの方が合楽の先生らしゅうしてよかろうと思うたから、今日これを投函するつもりでおりますがね。
 この手紙の中にです、私は今日の七十八節がある様に思うのです。まあ正確に申しますと、私共の婆、それから両親そして私、そして子供達へと、まあ云うならば金光様の信心が以来おかげを頂いて続いております。そして何処と取柄のある信心でもないし、特別熱心であった事もないし、まあ云うならば、悲しい時の神頼み的な信心であったかも知れませんけれども、一貫して神の機感に適ったと云う事が、私は有難いと思うです。
 先日からも聞いて頂きました様に、婆の信心と云えば、ただ大祓い一つよう上げませんでした。御祈念をする時には声を立てて拝みますけど、天津祝詞を繰り返し繰り返し上げましたです。けれどもね、神の機感に適うた生き方と云うよりも、その祈りの中心をです、思います時に神の機感に適う事を、一生懸命願うと云う事です。どうぞ例えば私共孫達の三人の子供を繰り返し繰り返し唱えながら。
 どうぞ神様あなたのお役に立つ氏子にお取り立て下さいと云う願い、もうこれだけでも神の機感に適いますよね。だから、あれもこれも足らわなければと云う事ではないです。神の機感に適うと云う事は、神様が一々合点して下さる、うなづいて下さる様な内容、その内容が自ずと祈りに現れて來るのです。私の両親の信心などと云うのは、取分け商売の繁盛の事を願い、もう人間関係の随分苦しい事だけで、まあお参りしたというてもよい位です。それは熱心でした。
 苦しい事が続きますから、特に人間関係では苦しい立場に立っとりましたから、もう何時も本当に泣きながら親先生の御取次を、先代ですね頂いておるのを子供心に、何時もそれを見て、聞いてきております。けれども母の信心、そういう事でしたけど、真心と云うか、真と云うか、この頃から頂きます様に天地は真だと、その真と云うのは信心の信ですね。信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと仰る信心は、真心と書いてありますよね。その真そうすと次には誠、次には信心の信。
 いや本当に信心の信と云う字、それを教祖は使い分けておられます。あらゆる場合に真信、誠と使い分けておられます。何故使い分けねばならなかったかと云う意味は分からなかったですけれども、その時頂いた御理解が天地は真だと、その真はこの三つの真を合わせて云うならば天地の心であり、神の心であると云う風に御理解を頂いて、先月の十三日会だったでしょうか。改めてそれを字引で引いて見て貰いましたら、成程信心の信も誠と読むのです。読むだけではないその書いてあるその内容が成程。
 成程と合点する事ばかりで御座います。婆の場合はです、天地の真を素朴な信心で受け止めておる。云うならば私共が怪我でも致しますと、もうそれこそ、あのお土ですよね、お土を生神金光大神様、天地金乃神様と云って膝を割って怪我をして、こう血が流れておるところへお土を塗って呉れました。もうお土地を神様、大地を神様と頂き切っておるのです。それを真で受けておる。しかも神の機感にそれこそ、神様の痒いところに手の届く様な願いをしている。
 どうぞ孫達があなたのお役に立つ、あなたの機感に適う氏子にお育て下さいと云う願いなどは、もうそれこそ心憎いまでの表現だと思いますね。真に通うとる生活の全てがと云う事ではない。只祈りとかする事為す事がすでに神の機感に適うておったと、こう思います。私の両親の場合なんかは、只只勿論婆の場合でもそうですけど、御利益の事を一生懸命願った事ですけども、同じ御利益頂くでも願いが真に適うておる。天地の心に適うておる。なら両親の場合であってもそりゃ熱心でした。
 お参りもしっかり致しました。けれども、それは苦し紛れと云うてもよい位でしたけれども、母がこれは永年竹の筒のあれは売り溜めを入れました。ここに掛けてある柱に、その中にこうやって入れるんです。それを言わば神様にお供えするお金の入れ物にして御座いました。そして荷口ですか一番初めに売れたその日の売上を神様への御礼のお届けに致しました。それを子供心に覚えとりました。
 チャランチャランと一番初めの荷口を入れる。だからお酒を売っとりましたから、角打ちに來るですね、一杯飲みに來る。とそれが十銭です。一杯が十銭でしたから一升買いに來ると八十銭か一円位です。安いのは八十銭位の酒でしたから一升瓶。木炭一俵買いに來ると一円十銭とか一円二十銭の木炭でしたから、それを一俵分を一番、そして云うとりました。やあ今日はおかげ頂くと云う様な意味の事を言ってました。
 あのお酒が一升売れたり木炭が一俵売れたり致しますと、云うならば沢山お供えの出来る時を、今日はおかげ頂いたとこう云うとりました。お供えには誠不浄が掛っちゃ成らんと云われておりますが、それこそ喜び一杯で、その荷口の金額をお供えしておった。私はこれ一つだけでも神の機感に適うておったと思うです。婆の信心ね、そして両親の信心、そしてこの、手紙の中にも申しております様に、父そして母の死にです、自分の信心の全て以上の全てをです、私に譲り残しておって呉れる。
 しかも天寿を全うして、お国替えを頂く時の、その安らかな、お国替えの状態と云うものをです、拝ませて頂いて、それこそ責任を全うした、者だけしか頂けないだろうと、思われる様な状態で。お国替えのおかげを頂いておると云う事で御座います。神の機感に適う信心が、婆そして両親そして私と続いておるでしょうが。成程、合楽でです、本当にもうそれこそ、信心も出来ませんのに、かくまでのおかげを頂いてと云う、云うなら人間と身代と健康とが足ろうて。
 おかげを受けておると云う、事実を皆さんに見て貰い、そして聞いて貰うてです、皆さんの信心のです、手本にして頂きたい。そしてそういうおかげを頂いて頂きたいと思うので御座います。私は神の大恩を知らぬからとは、どう云う事か甘木の初代の親先生が天地の大恩を体得された。そこから木の葉、枯れ枝一枚一本でも、仇やおろそかになさらなかった。またそれを先生の信心を慕うて頂いて、來る者には徹底して教えられた。是は神の大恩が解ったら、とてもとてもそうしなければおられないです。
 電気がつけっ放し、クーラーがつけっ放し、誰も居らんとにもう毎晩ここに、夜中に出て来てから戸締りと電気をするけどね。そりゃこれだけ沢山人数がおりますし、出たり入ったりも、夜中でもありますから、ここの修行生の方達ばっかりの事ではありませんけどもです、もう本当にお粗末な事で御座います。最近心行と云う事を云われますが、例えば心に掛けると云う事が心行です。
 神の機感に適う事を心に掛ける事です。ああ勿体ない、例えて申しますと、私が夏冬通して私の部屋には暖房が利きませんから、ストーブが置いて御座います。ですから私があそこに座る十分前には必ず消させます。立ち上がる時に消す。それは十分間ではありますけど、それだけ石油が倹約になるでしょうが。そして、なら寒い思いをする事いらん。やはり後の十分位はちゃんと保温が出来とりますもん。
 私は立ち上がる時ではない、私が控えておりますと、時間を知らせて呉れてる子供達が一緒にお供して出て来とります。私が必ず冷房を五分前に切ります。そりゃたった五分間ですけれどもね、十日すりゃ五十分ですよ。一ヶ月すりゃ百五十分ですよ。それこそ私は塵も積もれば山となると云うがです、これは只お金を残す人だけの始末倹約でなくて、そういう心掛けが神の機感に適うと思うです。私の方の長男の嫁のお父さんの倹約ぶりと云うのは、是はもう徹底しておられます。
 まあだ今でも銀座のまん中で寿司屋をしておられますが、もう皆小僧さんたちに市場に行ってあのトロ箱をですね。 あれを全部拾うて来させて、あれを洗うて干してあります。私も行ってたまがりました事は、通りに干してあるです。それは御飯を炊かせて貰う薪にされるのです。だから絶対電熱なんかを使われない。その方がよいまた御飯も出来る訳ですね。そりゃもう醤油でも砂糖でもとても普通ではない。まあ普通で云うならシミッタレと云う事になるかも知れません。
 なら御信心があられる訳じゃないから、神様の御物じゃから、勿体ないと思う訳じゃないと思うけれどもです、けれどもね、そうして御物を大切にされるその事は、天地の機感に適うからああして繁盛して行くのだと思うです。それを信心させて頂く者はです、絶えず心行をさして貰う。そして勿体ない、相済まん神様の御物を粗末にしては勿体ない。私はここで毎日の御理解のそれがお話の芯になる事もある。又色々頂いた事を、私はここで控えとります。もう十冊位出来とるでしょう。
 アルバムにずうっと沢山それが一寸紙切れに書いたり、こうして私が他所からお参りしてから、御神米を頂いて来ます。だから御神米の袋はちゃんとこうして取っとるです沢山、そして同じ教会、久留米教会のは貯めといてまたお返しするです。親教会なら親教会の御神米入れが溜ると、それを五十枚なら五十枚貯ると必ず私は持たせてやるです。私は三度も三度も云うならば、お役に立つ事なんです。同時にまたバラバラのは私がメモする用紙に使います。それだけでも矢張り神の機感の適うのです。
 神の機感に適うた氏子が少ない。神の機感に適う。それがあれもこれもと云う訳ではないですけれどもです、なしておる事、思うておる事、いわゆる行うておる事の中にです、神の機感に適う何物かが、こうして継ながっておる、しかもそれが、三代続いたらと云う事になるのです。神のおかげを知らぬから粗末にするのです。そこで神のおかげを知ると云う事です。ええですか、神のおかげを知らぬから互い違いになると云うのですから、どうでも知らねばいかんのです。
それを知っただけではない、それを大切におし頂かなければ駄目です。神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る。もうお互いが願って止まないのがここです。自分の代だけではない、子供にも孫にもいよいよ代勝りのおかげを頂かせて貰いたいと思うならです、神の機感に適う事を、どれだけしておるかと云う事です。しかもそれが子にも孫にも伝わらなければならない。
 親の代は熱心だけども、子には伝わらない。何故伝わらないだろう。思うて見なければいけません。この手紙の最初に申しております様に、両親の死に依って何を私が得たかと云う事を言っております。親達の死に依って知りました、無情、即ち有情。誠に尊い体験を致しました。一切が御恩恵の中の事と申しておりますね。親の死に依って何を、それこそ無情、即有情である事。
 これが本当の意味に於ておかげを知った者の姿です。自分の思う様にならない事はおかげじゃないと思うところに、神の機感に適わぬのです。自分が損をする。自分の思う様にならんけれども、それも無情でなく有情だ。それも神のおかげだと分からせて貰う。神のおかげを知らぬからね。甘木の親先生が言われる一切の御物を、御物として頂き抜かれたところで。神のおかげを知っておられた。
 私が一切の事に御の字をつけて御物として、御事柄として頂く事は神のおかげが分かって来たからなのです。だから親の代より子の代、子の代より孫の代と言う様におかげになって行く。しかも代勝りのおかげになって行くと云う、言わば訳が皆さん分かるでしょう。先ずは神のおかげを知らねばいけません。神のおかげと云うものは、只神様から頭を撫でられる事が、ほんなおかげじゃありません。
 叩かれる事もまたおかげである。そのおかげが分かった時です、そのおかげが分かった時に私は本当の意味での信心が分かったと云うのですから、本当の意味での信心が子にも孫にも伝わるのです。あれもこれもと云う訳ではありませんけれども、私が申します、なら私のばばとか、両親の信心の一端を聞いて頂いて、成程神の機感に適ったものがそこに本当少し、僅かではあるけれども、天地に適うておった、神の機感に適うておったと云う事が解るでしょうが。
 その神の機感に適うた信心が二代三代と続いて行かなければならないと云う事で御座います。神様の願いは此処にあるのです。年勝り代勝りのおかげとさして貰うて、愈々神の気感に適う所、たった一つの気感に適う心が、二つ適う心か十にも二十にも段々それが大きくなって行く事になれば成る程、おかげのルートは大きくなるのですから、大きくなって來る事は惟はもう言を待ちません。皆さんこれはどうでも代勝りのおかげの頂ける、信心をして頂きたいと思いますね。
   どうぞ。